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電情日記

北京への旅

室 英夫

MEMS・センサの研究を行っている室です。電情日記についてはこれが4回目の投稿となります。今回は国際会議Transducers’11で訪問した北京についてお話したいと思います。北京空港までは昨年国際線が開港した羽田空港から3時間弱のフライトで北京市街地へは新交通システム「机场快轨(ji1 chang3 kuai4 gui3)」で約20分、価格は25元で行けます。北京市内は縦横に地下鉄が走っていて、路線間の接続もよく、移動は極めて便利です。料金はどこまで乗っても1回2元です。市内は人であふれ活気に満ちていますが、地下鉄や公園の入り口などいたるところに金属探知機が設置されていて、セキュリティ確保に注力している印象を受けました。

国際会議Transducers’11が開催されたのはオリンピック公園の一角にある巨大な会議場「国家会议中心(guo2 jia1 hui4 yi4 zhong1 xin1)」で敷地も建物も極めて超大な感じがしました。周りにはオリンピックで使用された競技場や水泳場などのスタジアムが立ち並んでいました。このオリンピック公園は市街地の北部に位置しますが、市の中心部には故宮博物館(紫禁城)、天壇公園、天安門広場など多くの名所旧跡が存在します。さらに南西数十kmのところには北京原人が発見された「周口店(zhou1 kou3 dian4) 」があり、北方数十kmのところには「万里长城(wan4 li3 chang2 cheng2)」があります。

北京の歴史は極めて古く、斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の7雄が覇を唱えた戦国時代(BC403~BC221)には「薊」と呼ばれ、燕の首都でした。司馬遷の「史記」によれば燕の太子「丹」は秦の始皇帝を暗殺するために刺客「荊軻」を派遣しましたが、パートナーが怖気づいたために未遂に終わり(BC227)、燕の国は始皇帝に滅ぼされました。北京は「唐」の滅亡後は「後晋」に含まれ「幽州」と呼ばれていましたが、916年に契丹族の「遼」の首都「南京」と呼ばれました。これは「遼」にとっては南に位置するためですが、極めて紛らわしい話です。その後1115年に女真族の「金」が建国されると今度は中央に位置するので首都「中都」となりました。1234年にモンゴル族は「金」を追い出し、北京に「元」の首都「大都」を築き、その後約100年世界都市として栄えました。

「明」の時代になると朱元璋は現在の南京を首都としましたが、三代皇帝・永楽帝は北京に遷都し(1403年)、以来次の王朝である女真族の「清」が滅亡する1912年まで北京は大帝国の首都であり続けました。1912年に成立した中華民国は当初北京を首都としましたが、1928年に首都を南京に改め、1949年中華人民共和国成立以降北京は再び首都となり、現在に至っています。

中国訪問の折は少しでもこれらの歴史の旧跡に触れられたらいかがでしょうか。


写真.1 国際会議TRANSDUCERS’11が開催された国家会议中心(China National Convection Center)


写真.2 朝の天安門広場

電情日記

雑感

芳賀 裕

3.11東日本大震災.あれから3ヶ月以上たちました.毎日被災地の復旧・復興に向けての各地からの様子が報道されています.3月当時に比べたらずいぶんとよくなってきたと思われますが,また,新たな問題も生まれてきているようです.

実は,4月の中旬に,石巻市で車ごと津波に飲み込まれ,九死に一生を得た友人夫婦と夕食をともにする機会がありました.地震直後,彼は車で高台に逃げることしか頭の中になく,人の考えることは同じようで,あっという間に道路は車でいっぱいとなり,そして一気に海水が押し寄せ車を飲み込み,ぷかぷかと浮いた状態になったようです.このとき彼は,海水が中まで押し寄せて電気系統をダメになる前に,パワーウインドウーを開けて,何とか脱出しようと,冷静に考えることができたようです.ほとんどの車は津波に持って行かれたと,彼は小声で言いました.奥さんも同じように津波に流され,自力で高台に逃げて,難をのがれることができたそうです.友人夫婦は本当に幸運であり,命があるのが不思議なほどの体験をし,生かされた命を大切に前向きに生きていきたいと,東北人らしい口数の少ない中で話してくれました.被災地の様子はテレビでは映し出されない悪臭や砂埃,がれきの山,それはそれはすごいものだそうです.これからどうしてよいのか,途方に暮れるときもあるけれども,今は,この春から社会人となった息子さんの成長が,楽しみとも話してくれました.また,私たち同期数人で,夫婦の希望するパンクのしない自転車を2台送りました.きっと彼らの足となっていることでしょう.時間とともに余震も減り,遠くに住む私達は少し心が緩んできましたが,まだまだ避難所生活,不便な暮らしをしている人たちがたくさんいます.この夏,節電に心がけ,自粛すぎない元気な生活がしたいものです.

久しぶりに梅雨の晴れ間,佐倉城趾公園のあやめを見に行きました.若い頃は花の名も知らず興味もなかった私も,年のせいでしょうか季節の花は,本当に美しく心が癒されます.公園内は紫色,青色,黄色,桃色と色とりどり多種多様な花が咲いていました.雨上がり曇り空に咲く,あやめはうっとうしい梅雨時の一服の清涼剤のようでした.ちょうどあやめが見頃となっていて,たくさんの人が訪れて,歩道や小道に所狭しと自慢の一眼レフカメラを構えた人たちであふれていました.さすがに狭い通路にどんとカメラの三脚をひろげて,人の流れを止めているカメラマンには少々がっかりしましたが,これからも日常の小さな自然の営みに触れ,公園などを散策したいと思う一日でした.そして来年は,東日本にも穏やかな季節が巡ってくることを願います.

電情日記

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